「成田の映画を撮るのが最大の目標」と断言! 『古都』のSaito監督 ヒューマックスで舞台あいさつ♪ ㊥ 

進行:『古都』現代版を撮るにあたって、日本文化や京都には、映画を超えた奥深さがあったと思いますが。

監督:ノーベル賞作家である川端康成先生の原作で、過去に2回、1回目は日本で初めてアカデミーにノミネートされた作品、2回目は山口百恵さんの引退作、映画界では触れてはいけない大原作で、「よくやるな」という映画界の先輩たちのおおかたの意見の中、逃げちゃいけないと思いました。

川端先生のご子息(娘婿に当たる川端康成記念會理事長の川端香男里氏)にご挨拶に行ったとき、人生で一番緊張したんですが、仏のような顔で、「小説と映画は違う。アメリカ帰りの若者が撮る、しかも現代版にするということが、バトンタッチになるのではないか。作品を眠らせておくより、そういう目線で撮ってもらいたいということで、あなたに託すので、自由にやってほしい」と言っていただきました。
そして、ここからは鋭い顔になって「物語は自由に書いていいから、1つだけ約束事は、川端先生が大事にした『日本人の美と精神』というものは、必ず後世につなげてください。その伝統を継承する作品であれば、何をやってくれても結構です」。

自由なようで非常に奥深く難しいお題だったので、川端先生の足跡をだどって2年間京都を回って、原稿も50稿以上書いたけれど答えが見つかりません。
今もそう簡単に見つからないんですけど、お茶だったり禅、自分が体感したものを脚本に書きたいということをずっとしていました。

京都は知ったかぶったら終わる、ちょっと勉強して「京都を知ってます」と言ったら、竹のようにパーンとはじき返される場所なので、「知りません。でもこの精神を受け継ぎたい!」という精神でいくと、すっと中に入れて、縁が縁を呼んで、人をどんどん紹介してくれました。

体感することで、京都人ではない僕が、京都を外から見た目線でドキュメントしていくという感じで、伝統や文化と向き合えたかなと思います。
僕がというよりは、出てきた人や物、町屋など、いろいろと制約がある中、オールロケーションすべて本物というところにこだわりました。
つないできた人たちの物語、背負ってきた宿命、フレームで映らなかったものが京都にはあったし、そこに一番こだわりました。

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進行:親子、家族の物語で、家族のことも思い出されたのでは?

監督:今日ここにいる半分くらいの方々は、おやじの知り合いかな? また親戚? 同級生?と思っています(笑)。
当然、家族に見せたいというのはありました。
快く留学に送り出してくれたのも家族。
もう亡くなりましたが、祖父が川端康成全集を持っていて、「本読めよ。本を読めよ」と言われたのを無視し続けました(苦笑)。
スタートのきっかけは祖父だった。
そういうことを想うと、家族を描きたかった。
母が娘を思う、娘が母を思う究極を描きたかった。

パリのシーンは原作にはないオリジナルですが、ほぼほぼ僕の実体験で、母も2回、苗子さんのようにハリウッドに来てくれました。
当時はスカイプはなく電話だったんですけど、電話では、「バリバリうまくいってるよ。アメリカ人と一緒に映画を撮りまくってるよ。その中心にいる。いつか見せるから」と言いながら、本当は最初の4年間、文化と言葉の壁に、思い切りズタボロにされてまして、外には強がったけど、実態は何も撮ってないという苦しい時代が続いていました。

最初に母と祖母とおばが来てくれたとき、唯一ホームシックにかかっていて、「おかあちゃ~ん!」と(笑)。
(映画のように)添い寝してもらうわけにはいかなかったから(笑)、ぐっとこらえました。
その悔しさが、映画という形に表れてるのかな。
その時に言いたかったこと、感じていたことを、成海璃子ちゃんに代弁してもらった、そういうイメージです。 (続く)

riko

この記事を書いた人

Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。