成田の歴史 と史跡63

【市域を領した旗本 1】

〈斉藤氏〉
斉藤氏の幕末の当主は次郎左衛門といい、奈土村の一部の領主である。家祖の利基は越中国新川郡虵(虫へんに也)尾の城主で、天正元年(一五七三)に没している。その子信利は織田信長に仕えていたが、天正十二年に神保氏張と佐々成政に信長に反抗するように命じられ、それに従わなかったため外祖父氏張と戦になり、敗れて流浪の身となった。翌十三年家康に仕えた。文禄元年(一五九二)に下総国香取郡内に一〇〇〇石の知行地をもらったが、このときに奈土村が斉藤氏の支配下になったのであろう。
〈小林氏〉
小林氏の幕末の当主は錬之助といい、一坪田村の一部の領主である。小林氏の家祖宗次は文禄四年(一五九五)から徳川家康に仕え、廩米(りんまい)三〇〇俵を下賜された。大坂両度の陣で功績をあげ、凱旋ののちに大番に列した。宗次の長男宗重は徳川秀忠に仕えて大番となり、のち腰物侍となり廩米三〇〇俵を下賜された。寛永十一年(一六三四)に一〇〇石を加増され、そのとき廩米を改められて下総国海上郡に知行地を与えられた。さらに寛文十年には海上郡の知行地を同国匝瑳・香取の二郡内に移された。このとき一坪田村が宗重の領地となったのである。宗重以降、小林家は宗房・宗春・春郷と家を継いでいくが、特筆すべきは春郷で、佐渡奉行など重職につき、宝暦三年(一七五三)には従五位下伊予守に叙任している。
(北囲護台 小倉 博)

現在の奈土
現在の奈土

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Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。