成田の歴史 と史跡 70

【堀田正睦の成田山参詣】
佐倉藩は代々将軍家に近い譜代大名が封ぜられ、幕府の最高職である老中には、歴代藩主20人中8人がなっているほどである。その一人に堀田正睦(まさよし)がいる。正睦は早くから開国論を主張した人物で、日本外交史の先覚者としても知られている。ここで正睦が成田山に参詣するときの様子をみてみたい。
正睦は、文政八年(一八二五)三月に16歳で11万石の家督を相続し、翌九年九月四日、藩主として初めて佐倉に帰城した。その年の十月十三日、正睦は藩主として初めて成田山へ供を連れて参詣に来ている。以後、江戸藩邸から佐倉に帰城したときは、2カ月以内にかならず供揃いで参詣している。
天保二年(一八三一)十月十五日の場合は、供は御用人庄田孫太郎ら25人で、このほか警備のため、役人5人が前夜より成田村に詰めていた。五つ時(午前8時頃)に成田山に到着した正睦は、本坊で着替えの後、本堂に入り、ご本尊に参詣し初穂金二百疋を供え、別に住職に金三百疋を下賜した。そしてまた本坊に戻り、座敷に着座して汁粉餅の接待を受け、四つ半過ぎ(同11時頃)に成田を去っている。
藩主の供揃い参詣があると、翌日、住職が依頼を受けた護摩札を携えて城へ出向き、礼を述べるのが従来よりのしきたりである。このときも住職照胤上人は、菓子三重折台付と梨一箱の臨時献上品を持参して、正睦と面談している。
(北囲護台   小倉 博)

名称未設定 1

この記事を書いた人

Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。