成田の歴史と史跡 60

【巨人ダイダラボッチ】
成田市内には縄文時代晩期の標式遺跡となっている荒海貝塚など著名な貝塚があるが、貝塚は縄文時代の人々が食べた貝殻を捨てたところだということは、小学生でも知っている。しかし昔はこうした研究はなく、まして海に遠い土地にハマグリやアサリ・カキなど海産の貝殻があるのはとても不思議だった。そこで大昔には巨人がいて、貝塚のそばの丘に腰をかけ、太平洋や東京湾に手を伸ばして貝を採っては捨てたのではないかと考えられ、巨人伝承が生れた。
この巨人をダイダラボッチ(大太法師)とか、ダイダラボウ、デーデーボ、などといっている。その伝承は関東地方を中心に聞くことができる。たとえば相模原市の菖蒲沼は、むかしダイダラボッチが富士山を背負おうとして、富士山と身体を結ぶフジヅルを探し歩いたとき、どうしても見つからず、その場で悔しがって地団駄を踏み、その跡のくぼみに雨水がたまったのが沼になったと伝える。
成田で聞くダイダラボッチの話は、成田ニュータウンの造成によって埋められてしまったが、松崎にあった千把ケ池についての伝承がある。ダイダラボッチが印旛沼をまたいで足を栄町竜角寺と印西市木下に置き、沼の水で顔を洗い、そのときオシッコをしてたまった水が千把ケ池だという。あるいは千葉県を南から北まで5歩で歩いていくが、さらに北に進むとき竜台から利根川をひとまたぎして行ったという。
(北囲護台 小倉 博)

昭和12年当時の千把ケ池
昭和12年当時の千把ケ池

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Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。