成田の歴史 と史跡 68

【市域を領した旗本 6】

〈酒井氏〉
酒井氏の幕末の当主は六三郎といい、久井崎村の一部の領主である。酒井氏の家祖は忠正で、慶長十二年(一六〇七)に召されて二代将軍徳川秀忠に仕え小姓となり、同十六年には従五位下下総守に叙任している。元和三年(一六一七)には武蔵国榛沢・児玉の二郡内に一五〇〇石の知行地を賜った。さらに寛永六年(一六二九)に下総国香取郡に三〇〇〇石を下賜され、合わせて四五〇〇石となった。
忠正の跡を忠洪・忠英と家を継ぎ、享保十年(一七二五)に忠英が駿府城の城代に就任したとき、加増されてすべて五五〇〇石の旗本になっている。忠英の長男忠丘が元文元年(一七三六)に家を継いだが、そのとき知行地を駿河国の四郡と、下総国香取郡に移されている。酒井家が久井崎村の領主になったのはこのときであろう。
〈松平氏〉
松平氏の幕末の当主は権之助といい、西長岡村の一部八石余を知行していた。西長岡村の村高は江戸時代を通して二二石余りであり、小さな村といえる。松平氏の家祖は信綿で、元禄五年(一六九二)一四歳のときはじめて五代将軍徳川綱吉に拝謁し、翌六年父の遺領から武蔵・下総両国の二〇〇〇石を分知され、寄合に列した。同十一年知行地を上総国山辺・下総国豊田・香取の三郡に移された。西長岡村が松平氏の領地になったのはこのときである。なお、松平氏は倉水村の領主でもある。
(北囲護台 小倉 博)

現在の久井崎
現在の久井崎

 

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Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。