【印旛沼干拓の失敗】
成田市の北端を流れる現在の利根川は、銚子市と茨城県神栖市の境において太平洋(鹿島灘)に注いでいる。だが、もとの利根川は東京湾に注いでいたのである。天正18年(1590)8月に江戸に入った徳川家康が、江戸を利根川の水害から守るため、さらには舟運を開いて江戸と東北との経済交流を図ることを目的に、この利根川の東遷を考えたのである。
利根川の東遷は、文禄3年(1594)の川締切を皮切りに、60年の歳月をかけて承応3年(1654)に完成している。こうして江戸は利根川の水害からまぬかれたが、今度は下流の下総国や常陸国の村が水害に遭うことになった。特に印旛沼では、利根川が逆流しても沼水の逃げ場がなく、沼沿いの村々は被害が大きかった。
このため幕府は、印旛沼の水を東京湾に注ぐことを考えたのである。このことは何度も計画されたが、すべて断念している。そして最大の工事は天保14年(1843)に実施されたものである。老中水野越前守忠邦が天保改革の一環として計画したもので、沼に面する平戸村(現八千代市)から検見川村(現千葉市)の海岸まで堀を掘り、東京湾に水を落とすことができれば、沼周辺の水害を防ぐことになり、しかも水の減った部分には新田が開発されるとの目論見である。
しかし水野は上知令の頓挫によって老中を罷免され、印旛沼干拓は失敗に終わったのであった。
(北囲護台 小倉 博)