【建築物としての末廣別邸】

河東氏からは、建築物としての末廣別邸の分析がされました。
全体的には、格式を重んじる書院造りでありながら、豪華さを排除し、風流を好む茶人などが好みに任せて造った数寄屋造りも、さりげなくあしらっている邸宅であること、あえて洋風住宅専門の建築家に設計させたのは、自身の好みを最大限に盛り込みたかったと考えられること、小岩井農場内に同時期に建てられた聴禽荘(ちょうきんそう)が、接客も意識した作りであるのに対し、末廣別邸は、建築様式を強調することなく、久彌氏が合理性を考えながら暮らしやすい自分らしい邸宅として造ったと思われることなどが語られました。
【庭園にも久彌氏の意思が】
庭園については藤井氏が言及。
植林地、農場の地形と樹木を活かしながら、接客にも使う主屋のいくつかの座敷からは書院造庭園が眺められ、居間である東屋からの風景には父を思い出す楠が配されているなど、久彌氏の好みが感じられること、主屋の正面に円錐形の高野槇を配し、沓脱石に自然石を用いないなど、伝統を大切にしながらも新しいものを取り入れていること、いずれにしても、池や築山、岩などを配した豪華な日本庭園でもなく、非常に自然体な庭であると分析されました。

【久彌さんの想いを大切にする末廣別邸の活用法】
活用法についてのディスカッションでは、建物も庭園も、久彌氏の品格ある控えめな、人となりが証明されているものであるがゆえに、「普通ではない」場所を観に来る「観光客」にアピールする難しさを踏まえた上で、様々な意見が交わされました。
久彌氏が伝承したかった想いや哲学を語り合う場、訪れた人々に農業を介して関わってもらう場、成田に降り立つ海外からのお客様にゆっくり日本の心と触れあってもらう場、当時の上流階級の普通の生活を味わう場、豊かな四季を眺めながら極上の時を過ごす場、里の自然を味わい失ったものに帰る生活スタイルを発信する場、近代化の資料として子どもたちの遠足の場に、などの案が語られました。
最後に野沢氏が、「久彌さんの想いや愛情が伝わる活用の仕方をしてほしい」と、関わるすべての人の思いを代弁しました。
【市民ボランティアの協力で当時のままに復元を目指す】
末廣別邸の「末廣」は、地元の土地呼称で、扇のように開く独特の地形であったことから付けられたもの。
2012年に三菱地所(株)から寄贈された当初は、敷地の半分以上が竹林に覆い尽くされていましたが、5ヶ月かけて伐採を行い、現在は市民ボランティアの協力を得ながら、本来の庭園の姿を復元するための調査を実施しています。
富里市は、建物も庭園も、つくられた時そのままの姿に復元することを目指しています。
