成田の歴史 と史跡 80

【印旛沼干拓失敗のやじ】
前回書いたように、天保年間の老中水野越前守忠邦が考えた印旛沼干拓は、水野の罷免により失敗に終わった。このため幕府を罵倒する噂話や逸話がいくつも伝えられた。ここに紹介する、現役の力士名にかけ合わせてやじった「お役ご免相撲」もその1つである。
一、親玉は何にも
不知火(しらぬい)
※将軍様はこの天保の改革による民衆の苦しみを、何にも知らないだろうということ。不知火は第11代横綱である。
一、町人の風儀直したは   手柄山(てがらやま)
※水野が失脚し、民衆が救われたのはお手柄だといっている。手柄山の最高位は大関。
一、水野は上を見ぬ
鷲ケ浜(わしがはま)
※水野は老中という要職にあったことから、将軍に相談もしないで勝手にものごとを決めるわがままな人間だということになる。鷲ケ浜の最高位は関脇。
一、腹切り覚悟は 稲川
※水野をはじめその部下で、天保の改革の失敗の責任を取り、切腹する覚悟の者は誰もいないといっている。稲川の最高位は関脇。
一、紀州ご相談させる御三  家 要石(かなめいし)
※水野の失脚後は尾張藩・紀州藩・水戸藩の御三家が中心となった。やはり御三家は幕府の要の石だ。要石の最高位は前頭三枚目。
◇    ◇
長い間書き続けてきました「エリア再発見」ですが、本稿をもって終わりにします。ご愛読ありがとうございました。
(北囲護台 小倉 博)

不知火
不知火

 

この記事を書いた人

Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。