【市域を領した旗本 4】
〈能勢氏〉
能勢氏の幕末の当主は小太郎といい、吉岡新田(現新田)の領主で、八六石余を知行していた。家祖頼員は紀伊国和歌山藩の徳川家に仕えていた。和歌山藩の徳川家は紀伊家ともいい、徳川の御三家である。頼員の長男隆重が家を継ぎ、享保元年(一七一六)に藩主吉宗が八代将軍に就任したとき幕臣に加えられ、下野国都賀・安蘇二郡において三〇〇石の知行地を下賜され旗本に列した。
吉岡新田は佐倉七牧のうちの矢作牧に接した林を開墾した新田で、享保十六年の検地により村として成立した。当初は幕府領で代官の支配下に置かれていたが、嘉永六年(一八五三)頼常の代から能勢氏の知行地となったものである。
〈雨宮(あまのみや)氏〉
雨宮氏の幕末の当主は主計といい、一坪田村の一部の領主である。雨宮氏の家祖家次は武田信玄・勝頼に仕えた。長男の昌茂が徳川家康に見出されて家臣となり、寛永二年(一六二五)孫の政勝のときに一坪田村一〇〇石の領主となった。このとき上総国周淮郡子安村(現君津市)に五〇石も加増され、合わせて一五〇石を知行し、晩年にも加増されて三〇〇石の旗本となった。その後、雨宮家は正種・正長と続くが、寛文十一年(一六七一)正長が家を相続するときに、弟の正秀に二〇〇石を与えた。ここで一坪田村の一〇〇石は弟の知行地となり、以下、正義・正忠と続き、明治に至るのである。
(北囲護台 小倉 博)