成田の歴史と史跡 64

【市域を領した旗本 2】

〈堀氏〉
堀氏の幕末の当主は貞之助といい、松子村と前林村・津富浦村の三か村の領主である。堀氏の家祖直政は元和七年(一六二一)13歳のときはじめて二代将軍徳川秀忠に拝謁し、この年にのちの三代将軍になる家光に付けられて小姓となり、下総国香取郡、上総国武射郡、常陸国真壁郡の三郡内に三〇〇〇石の知行地を下賜された。前林村など三か村の領主となったのはこのときである。
堀家は直政以後、直延・直定・直高と相続する。しかし直高は元禄二年(一六八九)に小姓になったが、同年10月に職務怠慢により閉門(窓を閉じて謹慎)を命じられている。お家断絶かと危惧されたが、堀家の先祖が織田信長・徳川家康と仕えた名門であるがため、翌3年8月に赦免され、家は幕末まで続いた。
〈青山氏〉
青山氏の幕末の当主は内記といい、伊能村の一部の領主で、九一八石余を知行していた。青山氏の家祖は幸通で三〇〇〇石を知行し、長男秘成が延宝四年(一六七六)に家を継ぐとき弟亀之丞に五〇〇石を分知したため二五〇〇石となっている。秘成は宝永四年(一七〇六)に武蔵国に一〇〇〇石を加増された。その後も二〇〇〇石を加増され、合わせて五五〇〇石の旗本になった。そして享保十年(一七二五)に駿河国の領地を下総国の香取・海上の二郡内に移された。このとき伊能村の一部が青山氏の知行地となったのである。
(北囲護台 小倉 博)

堀氏が領した現在の津富浦
堀氏が領した現在の津富浦

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Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。