成田の歴史 と史跡 67

【市域を領した旗本 5】
〈酒井氏〉
酒井氏の幕末の当主は作次郎といい、一坪田村の一部の領主である。酒井氏の家祖は吉勝で、三河国において徳川家康に仕えており、のちに徳川秀忠に奉仕して御膳奉行となり、五〇〇石を知行した。酒井氏は松平(徳川)氏が三河国にいたころからの重臣で、譜代でも名門といえる。
吉勝の長男重行は元和二年(一六一六)に家を継ぎ、書院番を経て、御膳奉行・二の丸の留守居・西の丸の留守居などを歴任した。重行のあとを重道・重政と相続している。重政が延宝六年(一六七八)に書院番に列し、同八年に家を継ぐが、知行のうち三〇〇石を上総国武射、下総国香取、相模国高座の三郡に移されている。このとき酒井氏が一坪田村の領主となったのである。
〈近藤氏〉
近藤氏の幕末の当主は作左衛門といい、一坪田村の一部の領主である。家祖の用政は、はじめ井伊直政に仕えていたが、のちに前田利政の家臣となった。利政が改易されると、用政は徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)に武蔵国入間、下総国香取の二郡内に一〇〇〇石の知行地を下賜された。その後二代将軍秀忠に従って御使番に列し、大坂両度の陣に参加している。用政の孫の用弘のときに一四〇〇石余の旗本になっている。元禄十一年(一六九八)に武蔵国の知行地を香取郡に移されたが、一坪田村の一部が領地となったのはこのときと思われる。
(北囲護台 小倉 博)

現在の一坪田
現在の一坪田

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Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。