成田の歴史と史跡 65

【市域を領した旗本 3】
〈上田氏〉
上田氏の幕末の当主は栄助といい、伊能村の一部の領主である。家祖の元次は松平清康・広忠の親子に仕え、幼少の徳川家康が駿河国の今川義元の人質となったときは供奉しており、純粋の譜代といえよう。その後、元俊・元政・元勝が家を継ぎ、寛永十年(一六三三)段階で五一〇石余を知行する旗本になった。その後、知行地を上総国市原郡と下総国香取郡に移された。元勝の長男元隆は小姓組の番士となり、寛文十一年(一六七一)に家を継いだ。元禄十年(一六九七)には下総国香取郡に二〇〇石を与えられ、同時に武蔵国の知行地を上総国武射郡と下総国香取郡に移された。このとき伊能村が上田氏の領地になったのである。
〈新見氏〉
新見氏の幕末の当主は鉄次郎といい、伊能村の一部を知行していた。新見氏の家祖正次は慶長十六年(一六一一)から二代将軍徳川秀忠に仕え、小姓組に列した。その長男正種は慶長十七年に大番に列し、寛永十年になると下総国葛飾郡と相模国大住郡に四五〇石を知行した。承応元年(一六五二)に組頭となる。その跡を継いだ正誠は小姓組の番士となるが、知行高に変化はなかった。正誠の二男正利が元禄九年に家を継ぎ、翌十年にはじめて五代将軍徳川綱吉に拝謁し、小姓組の番士となり、同年に下総国香取郡に二〇〇石を下賜された。伊能村の領主となったのはこの元禄十年のことである。
(北囲護台 小倉 博)

現在の伊能
現在の伊能

この記事を書いた人

Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。