エリア再発見 岩﨑久彌伝②

【末廣農場の誕生】

明治3年(1870)、かつて徳川幕府の直轄牧であった富里の地は、明治政府によって開墾地として利用されることとなります。これは幕府の終焉によって職を失った武士や商人など、「窮民」と呼ばれる人々を救済する目的として行われたものでした。しかし、元々、農業経験のない人々によって開墾が行われたことや、自然災害が頻発したことから計画は思うように進まず、国の補助金制度も廃止となったことから多くの開墾民が富里を去ることとなります。

明治8年(1875)、大久保利通によって下総牧羊場(後の下総御料牧場)が開設されたことから、開墾地は政府に買い戻され「獅子穴区」と称されますが、経営の合理化から再び払い下げの対象となり、数人がこれを購入しようとしますが高額であったため購入することが出来ず、最終的に岩﨑彌之助が購入、343町歩という広大な土地が岩﨑家の所有となりました。

岩﨑家としては、当初からこの土地で農業と畜産を行う予定でしたが、土地が痩せて地力が弱く、すぐには事業が興せないとして松、杉、檜111万本の植林を行い、20年後の明治44年(1911)に久彌の実弟である正彌が米国モルガン大学の留学から帰国したことを機に、養鶏と養豚を主要事業とした農場に生まれ変わり、大正元年(1912)11月1日、ついに先進的施設を備えた「末廣農場」が誕生しました。 (つづく)
(富里市生涯学習課   林田利之)

大正元年11月1日 第一回記念祭(橘田鶴子氏所蔵)
大正元年11月1日 第一回記念祭(橘田鶴子氏所蔵)

この記事を書いた人

Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。