成田の歴史 と史跡 71

【地名の変遷1】
成田市の地名にもいろいろ歴史があり、なかには事情があって消滅した地名もある。そのなかからいくつかを紹介する。
〈公津村〉
式内社の台方の麻賀多神社のための港、神の津が印旛沼にあったことに由来する。寛永十九年(一六四二)当時の村高は一二二五石余であり、江戸時代を通じて成田市域では西大須賀村に次いで大きな村であった。承応元年(一六五二)に、公津村の名主である木内惣五郎が、佐倉藩の悪政に苦しむ領内三八九か村の農民の窮乏を見かね、四代将軍徳川家綱に直訴をしたと伝えられる。義民で知られる通称佐倉宗吾の事件である。翌二年、台方村など五か村に分村され、公津村は消滅した。しかし明治二十二年(一八八九)の町村合併のときに、新しい村として公津村が成立した。
〈和泉村〉
根木名川支流荒海川中流左岸にあった村。佐倉藩領。寛文元年(一六六一)に松平和泉守乗久が上野国館林藩から佐倉藩主になったとき、藩主の受領名である和泉守と同じ村名にしていることをはばかり、日出村(ひので)村に改名した。新村名は村内にある中世城址が日出城(東和泉城)と呼ばれていたためである。延宝六年(一六七八)に、松平和泉守乗久が肥前国唐津藩に転封したことにより、この年にまた村名を和泉村に戻している。しかし天和二年(一六八二)に西和泉村と東和泉村に分村し、村名は消滅した。
(北囲護台 小倉 博)

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Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。