岩﨑久彌氏の想いが伝わる活用を 富里市 末廣別邸フォーラム ㊤

一般公開が待ち望まれている、富里市初の国登録有形文化財である「旧岩﨑家末廣別邸」。
農牧事業に尽力しながら、ここで晩年を過ごした、三菱財閥三代目総帥・岩﨑久彌の生誕150年、歿後60年 を記念して、その保存と活用を考えるフォーラム「岩﨑久彌と末廣別邸」が、10月18日、富里市中央公民館講堂で行われました。

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【相川市長も期待】

フォーラムに先立ち、相川堅治富里市長は、いすみ鉄道や、世界10カ国からも申し込みがあったという山武市の田んぼ貸し出しの例にふれ、「どんな田舎にも人々に通じる手段はある。大勢の人が訪れる富里市の観光の中心になっていくであろう末廣別邸を、人々に伝えてください」とあいさつしました。

【久彌氏の精神性に感銘を受けたブラウン氏が講演】

記念講演『末廣別邸に日本の面影を見る』を行ったのは、エバレット・ブラウン氏。
幕末・明治時代の写真技法・湿板光画で、日本の、時代を超えた情景「日本の面影」を撮ることをライフワークにしている国際フォトジャーナリストです。
数年前に「日本の面影」シリーズを撮影した時は、特に末廣別邸が印象的だったそうです。

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幕末・明治時代の写真技法・湿板光画

 

ブラウン氏は、たとえば、神社や森の、雰囲気、空気が違うのは、「『その土地に潜んでいる先代の人々の思いや記憶』があるから。湿板光画でその記憶を呼び起こし、人々に伝えたいと思いました」と、「日本の面影」撮影の動機を語りました。

日本の教育には、そのような思いや気配を感じる感覚がないとしながらも、伝統的な文化的水脈に敏感な若者たちが増えており、「先祖返り現象」が起こっているという興味深い見解も述べられました。

DSC_0986自身の作品をスクリーンに映しながら、「写真を撮る前には必ず、その場所、土地、今は亡き関わった人の魂と会話します。そうすることで見えなかったものが見えてきました。面影、気配を感じるようになりました」と語るブラウン氏。
末廣別邸でも、「久彌さんにはどう見えていたのか、どこに関心があったのか」と、久彌氏と対話したといいます。

ブラウン氏は、富里市に末廣別邸を寄贈した三菱地所(株)の社内報連載をもつなどの経験からも、久彌氏の高い精神性を知ることになります。
日本の国際化を代表し、財を築きながらも、晩年は末廣別邸で質素な生活を送りながら、次の世代に何を伝えられるかを考え続けた久彌氏。その思いに影響を受けたというブラウン氏は、「毎日のように、歴史ある建物や智恵のある年配者がなくなっていきます。末廣別邸を歩きながら、次の世代に何を伝承できるのか考えています。今、伝統文化が様々なところで復活しています。そこに幸せや豊かさがあると思います。どのように関われるのか、考えていきたい」と、ディスカッションに譲りました。

【実業家ではない久彌氏の顔】

DSC_0997ディスカッションのパネリストは、ブラウン氏、日本を代表する近代建築史研究者であり、「旧岩﨑家末廣別邸基本構想策定委員会」委員長の河東義之氏、同副委員長で千葉大学大学院園芸学研究科教授の藤井英二郎氏、都立旧岩崎邸庭園サービスセンター長の松井修一氏、久彌氏が礎を築いた小岩井農場の資料館館長、野沢裕美氏。
コーディネーターを、富里市生涯学習課文化資源活用室室長の林田利之氏が務めました。

松井氏と野沢氏からは、久彌氏の実業家以外の顔が紹介されました。
明治の男を代表するような、真面目、実直、頑固な面がありながら、孫には寛容であったこと、しかし間違ったことをすると孫でも蔵に入れられたこと、小岩井農場にグラバー邸で有名なトーマス・グラバー氏と訪れ、この荒れ地で畜産酪農ができるか相談していたこと、部下を叱責せず「これはどうだろう」と考えさせ、何事も独断では進めなかったこと、小岩井農場で避暑を楽しんでいたこと、馬を見に行くのが日課だったこと、農場の見回りでは従業員に気を遣わせまいと、わざと遠巻きに見回ったこと、いつも穏やかな久彌氏が、奥さんが雑草と間違って作物を抜いてしまった時だけは怒ったことなど、エピソードが語られていくにつれ、久彌氏が生き生きとよみがえってくるようでした。 (㊦に続く)

この記事を書いた人

Keitaro Sasaki

Keitaro Sasaki

千葉県成田市在住。成田エリア新聞(紙面版)編集長(2008-2014)以後はオンライン版の当サイトにて成田の情報を発信しています。成田を盛り上げるため、いろんなところに首を突っ込んでいます。